イースター島とは・・・

正式名称「チリ共和国自治区パスクア島」と言い、今から300〜400万年前までの間に、海底火山が3回噴火して形成された火山島。
イースター島は、タヒチから約4000km、南米チリ本土からは約3700kmで、人が住む最も近い島からでも約2000kmと言う場所にあり、 まさに南太平洋の南の端にポツリと位置している。
定期便は週に2便ランチリ航空がチリのサンティアゴからイースター島を経由して、タヒチのパペーテまで飛ぶ便が唯一の定期航路。
その他ではチャーター便や大型客船・貨物船がときどき訪れるのみ。しかし、その不便さがこの島の自然と遺跡を守っていると言っても過言ではない。
南太平洋の中でのイースター島は
今度はイースター島を南太平洋と言う広いエリアで見てみよう。
南太平洋に浮かぶ島々は大きく分けて三つの文化圏に分けられる。
ミクロネシア ・・・ 日本から比較近い距離にあり、グアム・サイパン等日本人旅行者に馴染みの深い島々が含まれる。
メラネシア ・・・ ミクロネシアの下に位置し、パプアニューギニア・ニューカレドニア・フィジー 等を含む。
ポリネシア ・・・ 日本から最も遠く、タヒチ・サモア・トンガ・クック諸島やハワイ・ ニュージーランド・イースター島と三角形 (ポリネシアン・トライアングルとも呼ばれている。)のように広範囲に広がっている。
いずれの文化圏の名称も、ギリシャ語が語源になっている。
ミクロネシアは『小さな島々』と言う意味で、メラネシアは『黒い島々』。但し、これは島が黒いと言う事ではなく、そこに住む人々の肌の色が他の文化圏の人に比べて濃い為に付けられた。
そして最後にポリネシアが『多数の島々』と名付けられた。
イースター島の歴史
イースター島へは西暦500年頃に、ポリネシアから人間がやって来たと言われており、言語・人種・植物などから一致している事と、人骨のDNA鑑定にて立証されている。
600年頃には畑が作られ、人口は増えていく。その後、700年頃からモアイ像製作が始った事でモアイ像の製造や運搬に木材が必要だった為に森林伐採が加速した。
西暦1000年頃には、人口が6000〜2万人に増えた事で、漁業と農業でこの人口を支えるのは困難になっていった。
しかし、森林破壊により土地がやせ、海岸付近の土壌は浸食し農作物の収穫も減っていき、更に船を作る木材もなく漁業もままならなくなり、森林破壊が思わぬ飢餓を招いてしまう。最終的には部族間の争いに発展してしまったと考えられている。
孤島で独自の文化を育んできた島民が初めて外界と接触したのは、1722年にオランダ人のヤコプ・ロッゲフェーンが上陸した時。その日がキリスト教の復活祭(イースター)の日だった事から彼はこの島を『イースター島』と名付けた。
その約50年後の1774年に、ジェームズ・クックが訪れた際には多くのモアイ像が倒されて、『フリ・モアイ』と呼ばれる部族間の争いが起こったと推測される。彼の航海日誌には、島民達が物乞い同然の飢えた状態だったと記されている。
19世紀に入り、捕鯨船など欧米の大型船など多数上陸するようになると、最大の悲劇が訪れる。1862年にペルー船が島の人口のほとんど(4000人程と言われている)の島民を奴隷として連れ去った。島民の中には王や神官などもいたが、ほとんどが過酷な労働や、島には無かった伝染病に倒れていった。
その約1年後、島に戻れた島民はわずか15人しかおらず、しかも彼らは伝染病を持ち帰って来てしまった。3年後には、フランス人が暴君となり君臨し、1877年には伝染病と虐待により人口はわずか111人まで激減してしまう。
文化は失われ、ロンゴ・ロンゴを読める人もいなくなってしまった。そこで、1888年 チリ政府はイースター島の領有宣言をし、1935年に国立公園と歴史的記念物に指定、1966年には、ついに自治権を手に入れた。
空港を開港し、ランチリ航空の定期便が就航するようになり観光地として歩み始めた。
1986年には、アメリカのスペースシャトル緊急着陸用に滑走路が修理・延長され、世界最長で安全な滑走路となる。
1995年、ユネスコの世界遺産に登録され、現在では年間2万人にも及ぶ観光客を受け入れる世界的な観光地として広く認知されるようになった。
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